WE BECOME WHAT WE THINK ABOUT

自己愛改善ラボログ

孤独の正体

f:id:noisolated:20170222200701j:plain

どんなにうまくいっていても、ふと孤独になる時がある。

家族がいて、友人がいて、職場の仲間もいて、

完全だとは思わないまでも、不完全だと思うほどでもない生活もあって、

きっと気づいていないたくさんの幸福に囲まれて、

それでも孤独に身を持って行かれそうになることがある。

 

その正体が、幼少期の自分が感じていた孤独感なんじゃないかって思うようになった。

 

私は父に可愛がられていなかった。(と思い込んできた。)

今、大人になって父の家族関係を振り返ると、

父もまた父親との関係に苦しんできた人だった。

そして、そんな父が家庭からいなくなって、

私の家族は、母・姉・妹になった。

母もまたシングルマザーの子供で、妹との3人家族で育った。

私が成人してから「家の中に男の人がいる感覚がわからなかった」と、

母は秘密を打ち明けてくれたけれど、その感覚は私にしっかり伝わっていたし、

姉と妹が常に結託していたせいで、私はいつも孤独だった。

 

それに加え、性的少数者として生きる、苦しさや孤独も、

幼少期の繊細な私を追い込んだ。

 

どこにも居場所がなくて、何度も夜の街を彷徨った。

早く大人になるか、早く死んでしまいたかった。

 

どこに居ても、誰と居ても、孤独を覚えてしまう癖は、

大人になって、どこへでも行けるようになっても変わらなかった。

 

完璧を目指して、愛想で笑う。

他人の顔色や仕草から、次の行動を読んで、自己防衛で笑う。

 

ああ、不意に訪れる孤独はきっと、そんな生き方に疲れた時に顔を見せるんだな。

独りでいる時の方がよっぽど独りを感じないし、

笑えることはないけれど、疲れることもないんだ。

 

でもこのまま昔の感情に振り回されて生きるのはあまりにも面白くない。

 

今度寂しくなったら、思いっきり昔の自分に共感して、

「寂しかった」って口にするんだ。

 

ずっと淋しさや苦しさを我慢してきた幼少期の自分に、

何度でも寄り添うんだ。

もっと自分を誇らしく思っていい

f:id:noisolated:20170217235617j:plain

自分の身体、自分の心、自分の性質、自分の能力、などなど。

自分の持てるもの、すべてを、もっと誇らしく思ってもいいのではないのだろうか。

 

あなたを生かしているその力。

あなたという人間を構成するその資質。

 

不平不満よりももっと前に、

その存在を誇らしく思ってみたいものである。

 

 

何も目指さない生き方

f:id:noisolated:20170212175112j:plain

何かを目指した途端、現在の自分との比較が始まってしまう。

それなら、もう何も目指さないという生き方はどうなんだろうか。

私は昔から理想主義で、いつも今の自分を変えたいと願いながら生きてきた。

私の人生はいつも目線を上げていないと描けないものだった。

成長志向が高く、勤勉な自分を誇らしく思う一方で、

いつも息切れのような苦しさがつきまとった。

 

そもそもどうして自分を変えなければいけないと思ってしまうのか。

それはきっと他者評価を気にしすぎているからだ。

その中でも特に経済力や社会的なステータスに価値を置き、

その理想にいつまでも手の届かない自分を叱責してきた。

 

だけど、その理想って本当に目指さないといけないのだろうか。

現状が淡々と続く人生ってダメなのだろうか。

人から賞賛されるような人生じゃなくても、

自分がそこそこ満足してヘラヘラして生きていける人生じゃダメなのだろうか。

 

もう何かを必死に目指して、自分の首を絞めるような生き方は手放そう。

とりあえず自己満足度の優先順位を上げて、ゆるゆると生きよう。

「あなた」というスペースを埋められるのは、この宇宙で「あなた」だけ

f:id:noisolated:20170204185456j:plain

生まれた瞬間から死ぬ最期の瞬間まで、

この物質世界において「あなた」というスペースの代役は存在しえない。

それが物質としての身体を得た私たちの使命である。

 

「代わりはいくらでもいる」

そんな言葉はあくまでも役割に関してだけだ。

あなたという存在に関して、代わりなんて一人としていない。

 

役割を生きているうちは、きっとそのことに気づけない。

宇宙のスペースを与えられた本当の自分がその自由を許可される時、

きっと本当の人生が始まる。

 

喜びも悲しみも、全ての感情は内側にある

f:id:noisolated:20170202201335j:plain

隣の芝生が青く見える時、

モヤモヤしたものが自分を覆ってしまいそうになる。

でもよく考えてみれば、自分が選んでいるだけで、

「羨ましい」というのは「今に不満」状態と同じこと。

そんな状態じゃ、うまくいくはずもない。

 

今日の想いがこの先の空間を創っていくから。

それは間違いがないって気付いたから。

 

今この瞬間に満たされていること。

今この瞬間を楽しんでいること。

今この瞬間を喜んでいること。

今この瞬間を愛していること。

 

それが過去からの滞ってしまったものを断ち切り、

新しい流れを創造する源泉となる。

 

記憶かイメージか

f:id:noisolated:20170128074850j:plain

時間軸については以前も書いたのだけれど、

今回は少し角度を変えて見えてきたものについて。

 

この世界には「記憶」と「イメージ」の二つの創造力があるんだと思う。

それを人は「過去」と「未来」という時間軸に落とし込んで生きている。

 

記憶というのは単純に人生分だけではなく、DNAの中に刻まれた生命の記憶全てで、

上書き保存のように今この瞬間も積み上がっていく。

多くの場合はこの記憶によって、人生や可能性に制限がかかっていく。

 

一方でイメージは記憶の逆で、完全に新規作成。

どんなものでも考えうるものについては実現可能。

でも記憶のスタック能力に比べて、同じイメージを繰り返すには忍耐が必要。

 

自分の場合はネガティブな記憶やイメージが生活を占めていたから、

そりゃ上手くいかんかったよなって感じ。

 

記憶を書き換えること(記憶もすべて主観だから可能かと)と、

自分の人生に望むイメージを抱き続けること。

 

特に後者は人生を変えるために欠かせない作業になる。

記憶の改変だけでは現状を変化させることはできない。

 

そして現在というこの瞬間だけが「リアル体験」のターン。

記憶の再生か、はたまたイメージの創造か。

結局人生はこの繰り返しなのかもしれない。

 

例えるなら、

雑草を抜いて、種を蒔いて、水を与え続ける。

そうすればやがて必ず地に根を張り、花が咲く。

 

2017/01/29追記

記憶を変えられるという点において補足をすると、

あるのはいつも「今の意識」しかない訳で。

どんな人間であっても、「今の意識」でしか存在していない。

つまり過去であろうが、未来であろうが、「今の意識」である。

だから、過去に対する「今の意識」が生んでいる反応を変える。

そうすれば変わっていく。

 

 

問題を創ったのも、問題に力を与えて長引かせているのも、自分

f:id:noisolated:20170123225607j:plain

問題を創ったのも、その問題に力を与えてきたのも自分だった。

解決しようとそのことについて考えれば考えるほど、問題は力を増す。

この世に存在する価値を自らが与えてしまったのだ。

 

大事なことは解決しようとしないこと。

エネルギーを注がないこと。

 

不安や恐れはエネルギーを浪費する。

 

全部自分次第だ。