WE BECOME WHAT WE THINK ABOUT

自己愛改善ラボログ

当事者だけどLGBTなんてどうでもいい

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今日はかなり本ブログの趣旨とは違った内容ですが、

 

まぁ誰も見ていないので良しとしましょう。

 

 

本タイトル通り、私はLGBT性的少数者)のGに当たります。

 

LGBTについての説明はもう不要でしょう。

 

 

で、今日は何を書きたいかというと、

 

1年だけLGBT関連の団体でお仕事していたんですね。

 

それまで親や友人にカミングアウトしてはいたものの、

 

バーやらイベントとはほとんど無縁だった私は、

 

その団体に所属してみて、かなり強めのカルチャーショックを受けます。

 

 

それは全然当事者感のない人たちが表立って活動しているんだなということ。

 

そして何より「正しい知識」みたいなものを「広めよう」としていたこと。

 

 

「レズは差別語に当たるので、レズビアンと言いましょう。」とか、

 

「カミングアウトされたら、まず『ありがとう』と返しましょう。」とか、

 

当事者の私でさえ初耳、意味不明なもので溢れかえっていました。

 

 

もうね、言いたいことは山ほどあるんですけど、

 

まず言いたいのは「LGBTなんて言葉いらない」んですよ。

 

 

LGBTっていうのはこの時代に合わせた呼称であり、仮称でいい訳です。

 

誰が誰を好きになってもいいっていう多様性が当たり前になれば必要ない訳です。

 

(人を好きにならない方もいるので、好きにならなくてもいい、と追記しておきます)

 

というかそういう多様性についての話が大事なんじゃないかなと思います。

 

 

Lはこれこれこういう特徴で、Gはこういった人たちで、・・・って、

 

それも必要ない。

 

そんなカテゴライズし始めたら、全然多様性じゃない。

 

聴いていて、毎回すごく違和感がありました。

 

 

だって「男はこうで、女はこういうものです」って一括りにできますか?

 

それよりもその枠を外そうよって話をした方が拡大しませんか?

 

男だから〜、女だから〜。

 

その先に紐づくものは制限です。

 

 

さっきの「カミングアウトされたら『ありがとう』と返しましょう。」

 

これも制限です。

 

 

働いていた1年間、矢面に立つ当事者たちが創り出していく「制限」に

 

本当に疲弊してしまいました。

 

 

何より何かあれば、「それは差別だ!」と目くじらを立てるその姿勢に、

 

ある種、恐怖を感じていました。

 

 

何も知らない人たちのことを加害者に仕立て上げ、

 

自分たちは被害者として大きな態度を取っている。

 

 

それはただの戦争です。

 

そんなこと当事者は望んでいるんでしょうか。

 

 

私は団体を辞めてから、心が平和になりました。

 

そういう情報を入れなくなったからでしょう。

 

 

誰かにバツをつけるのは簡単で、でもそのバツを付けられた方はどうでしょう。

 

裁いたり、責めたり、制限したり、

 

そこから平和は生まれるんでしょうか。

 

バツよりも、マル。

 

マルよりも、そもそもそんな視点で見ない。

 

 

どうすれば皆が気持ちよく、自分自身を愛していられるか。

 

そのことについて話ができる社会になればいいなと思います。

母親の幸せの為に、自分を犠牲にする必要はない。

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「母親を幸せにしなければ」「母を守らなければ」

 

幼心に私はきっと、家族の中で弱者の母を幸せにしようと誓ったのだろう。

 

 

母親の為に自ら進んでお手伝いをし、

 

できるだけ母の手を煩わせないように過ごし、

 

母が喜ぶことはなんでもしたいと思って生きてきた。

 

 

自分の第一希望のつもりであっても、その実、母の希望を優先してきた。

 

母の顔色をいつも伺い、これで自分の言動は合っているのか確かめてきた。

 

 

父から母を守りたい。

 

祖父母や義姉から母を守りたい。

 

その一心で、私は生きてきた。

 

もうすっかり顕在意識に上ることがなくなっても。

 

 

でも当然、我慢はどこかに支障をきたす。

 

自分を犠牲にした「母のため」はやがて大きな不満と、

 

それを抑圧してきた結果の恨みや怒りへと変化していった。

 

 

「母を幸せにしたい」「母を守りたい」という意識と、

 

心の中に澱のように積もっていく怒り。

 

その怒りにも罪悪感を感じ、さらに抑圧し続けてきた。

 

その結果が持病のアトピーなのかもしれない。

 

 

もういいのだ、母のことは。

 

幸せにしたい、守りたいという想いを捨てる必要はない。

 

ただ、その前に「自分を愛でいっぱいに満たしてあげてから。」

 

という大前提を忘れてはいけない。

 

 

私は「母の幸せ」の為に生まれてきた訳じゃない。

 

ましてや子どもの私にそれができなかったからといって、

 

自分を責め続け、罪悪感に苛まれ続ける必要はないのだ。

 

 

私は私の幸せのために、ここに在る。

 

私は自分を愉しむために、生まれてきた。

 

そして私が自分を愛でいっぱいに満たし、心の底から満たされた時、

 

初めて母に向き合えばいい。

 

 

母に愛されなかったから、今の自分は上手くいかないなんて、

 

被害者意識を持つのはやめて、生育歴から自由になっていい。

 

 

LOVE MYSELF COMPLETELY!
(自分自身を徹底的に愛そう)

全ては心次第

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全ては心の問題。

 

どんなに現状がうまくいっていようが、いまいが、

 

内側の心が整っていなければ意味がない。

 

 

心の調子は、身体の調子で判断できる。

 

心を可視化するための存在が身体なのかもしれない。

 

その人がどんな気分なのかは、表情含め、身体を見れば分かるように、

 

自分自身だって身体のコンディションを注意深く見れば、

 

きっと自分の心模様を知ることができるはずだ。

 

 

いくら環境を変えても、それが心のあり方に作用しないなら、

 

一向に身体も、世界も変わらない。

 

 

今、この瞬間に、心は変えられる。

 

それは心が、思考だとも言えるから。

 

思考は脳の解釈だから、少しずつしか変わらないかもしれないけれど、

 

私たちには今この瞬間の選択しかないわけだから、

 

そんなに気の遠くなるような話じゃないのかもね。

 

あなたを縛るものは捨てて行け

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善悪のような二元論を越えた先に、本当の愛があるような気がしています。

 

例えば、私は見事に白黒つけたがる善悪人間なので、

 

「〜すべきではない」「〜しなければならない」で自分の心を縛っています。

 

極端なのは、何もしていない時間を「また怠けてしまった」と後悔したり、

 

眠れない時は「眠らないといけない」という強迫観念で自分を追い込んだり、

 

いつも自分をジャッジして生きています。

 

 

交流分析でも恐ろしくCP(批判的な親)が高く、

 

FC(自由な子ども)がとても低い状態にありました。

 

上記のケースも、別に何もしていない時間を悪くとる必要はないし、

 

ましてそれで自分を責める必要もないわけです。

 

それでも自然とそうしてしまう。

 

それは幼少期に形成された脳の解釈なんだろうと思います。

 

そしてその時期から私は感情を抑圧して生きることを覚えます。

 

それは善悪に沿って、正しくあろう正しくあろうとしてきたから。

 

きっとそうしないと生きていけなったんだろうなと、

 

子どもの頃の家庭環境を今振り返ってみて思います。

 

 

そしてその頃の生き方で何十年経った今も苦しんでいる。

 

親を恨む気持ちも、消えてなくならない。

 

でも今できることは、親の代わりになって、

 

自分を許し続けること。

 

自分の中に自分を裁いてしまう許せない部分がなくなるまで、

 

時間はかかっても今度は愛で支えてあげたい。

心の中にずっとあったのは疎外感だった。

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私の中で何度も何度も再生されている記憶。

 

 

妹と父と私の3人で遊んでいて、私がズルをしたと父から非難され、

 

すごく辛い思いをした記憶。

 

そして、姉と妹に無視された記憶。

 

他にも姉の友人たちの仲間に入れてもらえなかった記憶。

 

あとは記憶というか、父がいなかったために、

 

いつも家には男一人だった事実。

 

男性性を感じるような言動は自然と自分の中で封印されてきたように思う。

 

 

疎外感をいつしか感じないように、ひたすら抑圧して生きてきた。

 

でも冷静に人生を振り返ると、何度も何度もこの疎外感を味わう現実を

 

引き寄せ、繰り返して生きてきている。

 

 

疎外感を感じたくないために、自分から人を遠ざけたり、

 

冷めた態度を取ってしまったり。。。

 

 

どんな集団に属しても、いつも溶け込めない気がしていた。

 

 

感情は味わって、解放することが大事だって。

 

疎外感を感じてきたことをまずは認めよう。

時間軸という概念の檻の中で、今を忘れた時、創造性を失う

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過去と、今と、未来が、連続している必要はない。

 

なぜなら時間軸という概念は人間が創り出したものだからだ。

 

以前にそんな記事を書いた。

 

 

一方で、過去という記憶をベースに、今を構築している。

 

そして今という瞬間を使って、未来に対して不安や心配をしたりするなら、

 

感情を伴ったイメージとして臨場感が増していき、確実にそれが今になる。

 

 

「過去→今→未来」という構図は、過去の記憶を用いて、

 

今この瞬間に、未来をイメージしてしまうことが原因なんじゃないか。

 

 

逆に「未来→今→過去」という流れで考えると、

 

いかに今この瞬間に、過去から自由になって、未来を創造するか、

 

という発想が奇跡を連れてくるんじゃないか。

 

 

今の自分も、現状も、瞬間瞬間、新しくなるチャンスがある。

 

 

そして、自分の失敗は、過去の記憶に縛られて、

 

自分の可能性を否定し、未来をどんどん先細りにしていたということだ。

 

 

昨日から、4〜5歳の頃の自分の在り方に戻ろうと思っている。

 

過去の記憶に縛られず、自己否定というブレーキをむやみに踏まず、

 

気分の良くなることに貪欲で、他人のせいや環境にしなかったあの頃へ。

 

自己否定こそが、人生が上手くいかない、究極のトリガー

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信じているものを私たちは見ている。

 

信じていないものを私たちは見ることができない。

 

 

つまり、自分が嫌だと思っている(信じている)と、

 

自分が嫌になるような現実を見ることになる。

 

 

「どうせ私にはできない」、「私はダメな人間だ」、

 

「私は誰にも愛されない」、「私にはふさわしくない」など、

 

自分を否定するような言葉を脳内で何度も繰り返せば、

 

それはアファメーションとなり、臨場感が増し、

 

やがてそのイメージは現実と大差ないパワーを持つ。

 

 

そして、冒頭の「信じているものを見る」として

 

現実に引き寄せられてくる。

 

 

もし、何をやっても上手くいかない、

 

今この瞬間がどうしようもなく苦しいなら、

 

まず自己否定をやめる。

 

ネガティブなセルフトークを止める。

 

否定のエネルギーを増幅しない。

 

脳内に否定の住処を作らない。

 

 

そしてもし少しでもまだ力が残っているなら、

 

いい気分になれるように思考を変えること。

 

変えられないなら、せめて無に近づくこと。

 

 

私は決めます。

 

自己否定を終わらせることを。