WE BECOME WHAT WE THINK ABOUT

自己愛改善ラボログ

内面世界が外面世界を作り上げている。

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これまでも何度かそういう類の内容には触れてきたのに、

 

なぜかこれまでとは違う受け取り方をする時がある。

 

腑に落ちるとはまさにこんな感覚なんだろう。

 

 

心の中にしっかりと根を張った考え方は、

 

たとえ無意識の領域に落ちても、ずっと機能し続ける。

 

 

0〜7歳は「刷り込み期」と呼ばれるらしいのだが、

 

おそらくここで出会う人たちの中で最も強力な影響を受けているのは親だろう。

 

例えばそれは仕事に関する思い込みだったり、

 

自分自身や他人との関わり方だったり、

 

お金に関する態度だったり、

 

人生を構成するもの、すべてにおいて。

 

 

例えばお金に関して言えば、私の父は浪費家で、

 

母はいつもお金がない、ないと愚痴をこぼし、嘆いていた。

 

また母にお年玉を親戚の前で回収されてすごく恥ずかしい思いをしたことや、

 

欲しいゲームを買ってもらえなくて、親や姉の祖母のお金に手を出したこと、

 

とってもいない銀行口座のお金を盗んだと母に疑われ、叱責されたこと、

 

お金を誰かから貰うときは遠慮して申し訳なさそうにすることを教えられたこと、

 

そして究極には「我が家は貧乏だ」という思い込みや、

 

「お金はそんなに必要じゃない」と言った信念。

 

 

どう考えても私は「お金」に対して、良い印象を持っていなかった。

 

そしてその内面世界通りに外面世界が合わせてくれていた。

 

 

仕事を変えたり、増やしたりして、

 

外面世界をなんとか変えようとするよりも、

 

まず内面世界でどんな思いこみが根を張っているのか、

 

しっかりと書き出して、点検した方がいいかもしれない。

 

そして不要な思い込みは手放していく。

 

 

両親のお金に対する態度は、見事に私にミックスして受け継がれた。

 

私は浪費家で、かつお金が不足することへの恐怖に日々支配されている。

 

多分、これはお金の分野だけでなく、

 

あらゆる面で私は父と母のミックスなのだ。

 

反面教師にしようと強烈に思考を転換しなかったものについてはほぼ例外なく。

100%、自分で決める

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自分の人生をどれくらい自分で決めているだろう。

 

 

「未来は不確定」

 

そう私が決めてしまったら、

 

未来の主導権は完全に私の手元から離れてしまう。

 

 

「私はこうする」

 

そう私が人生のあらゆる局面を選択できると信じて、

 

人生プランを作成していく。

 

 

その際、頭で考えるのではなく、書き出すこと。

 

頭の中の思考だと、現実に現れていない。

 

書き出すことで、まず最初の一歩を現実化させる。

 

 

決めよう。

 

100%、私だけの意思で。

 

他の誰かや環境によって左右されることのない、

 

100%、私の意識で創り上げる人生を。

 

 

 

deeper inside

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私たちの感覚は、誰に習ったという訳でもなく、

 

正解という答えが用意されている訳でもなく、

 

生まれた時から今日まで何の疑問を抱くこともなく、

 

最初から当たり前としてそこに存在している。

 

 

でも、私たちとは何者なのだろう?

 

この感覚が見せる、この世界は何なのだろう?

 

どこからが現実で、どこからが夢なのだろう?

 

 

今日も目が覚めて、また今晩眠るだろう。

 

 

私が昨日読んだ本の一節は、私がこれまで読んできた読書経験で、

 

もっとも衝撃的なものだった。

 

 

「あなたは『人間』ではない」

 

 

私たちは、あまりにも多くの概念を植え付けられている。

 

そして死ぬまで、そこに疑問を呈さなければ、その概念の中で生きていく。

 

 

東日本大震災は、そんな夢から私たちを目覚めさせる一つのキックになった。

 

 

恐怖は、これまでも人間の覚醒を促してきたんだろう。

 

ただその恐怖に頼らずとも、私たちの概念を、現実を一度疑ってみる。

 

もし、私がそのつもりでこの世界を眺め始めたら、

 

何かが大きく変わるかもしれない。

 

 

あなたは何者ですか?

 

その答えは間違いなく、あなたの中にしかない。

 

 

忙しさに追われて、ただ植え付けられた概念に従い、生きていくのか。

 

それとも、その概念を検証し、新しい概念を創造するのか。

 

その選択をする自由が昨日与えられたような気がした。

 

 

そのためには内なる自分に潜る時間が必要だ。

当事者だけどLGBTなんてどうでもいい

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今日はかなり本ブログの趣旨とは違った内容ですが、

 

まぁ誰も見ていないので良しとしましょう。

 

 

本タイトル通り、私はLGBT性的少数者)のGに当たります。

 

LGBTについての説明はもう不要でしょう。

 

 

で、今日は何を書きたいかというと、

 

1年だけLGBT関連の団体でお仕事していたんですね。

 

それまで親や友人にカミングアウトしてはいたものの、

 

バーやらイベントとはほとんど無縁だった私は、

 

その団体に所属してみて、かなり強めのカルチャーショックを受けます。

 

 

それは全然当事者感のない人たちが表立って活動しているんだなということ。

 

そして何より「正しい知識」みたいなものを「広めよう」としていたこと。

 

 

「レズは差別語に当たるので、レズビアンと言いましょう。」とか、

 

「カミングアウトされたら、まず『ありがとう』と返しましょう。」とか、

 

当事者の私でさえ初耳、意味不明なもので溢れかえっていました。

 

 

もうね、言いたいことは山ほどあるんですけど、

 

まず言いたいのは「LGBTなんて言葉いらない」んですよ。

 

 

LGBTっていうのはこの時代に合わせた呼称であり、仮称でいい訳です。

 

誰が誰を好きになってもいいっていう多様性が当たり前になれば必要ない訳です。

 

(人を好きにならない方もいるので、好きにならなくてもいい、と追記しておきます)

 

というかそういう多様性についての話が大事なんじゃないかなと思います。

 

 

Lはこれこれこういう特徴で、Gはこういった人たちで、・・・って、

 

それも必要ない。

 

そんなカテゴライズし始めたら、全然多様性じゃない。

 

聴いていて、毎回すごく違和感がありました。

 

 

だって「男はこうで、女はこういうものです」って一括りにできますか?

 

それよりもその枠を外そうよって話をした方が拡大しませんか?

 

男だから〜、女だから〜。

 

その先に紐づくものは制限です。

 

 

さっきの「カミングアウトされたら『ありがとう』と返しましょう。」

 

これも制限です。

 

 

働いていた1年間、矢面に立つ当事者たちが創り出していく「制限」に

 

本当に疲弊してしまいました。

 

 

何より何かあれば、「それは差別だ!」と目くじらを立てるその姿勢に、

 

ある種、恐怖を感じていました。

 

 

何も知らない人たちのことを加害者に仕立て上げ、

 

自分たちは被害者として大きな態度を取っている。

 

 

それはただの戦争です。

 

そんなこと当事者は望んでいるんでしょうか。

 

 

私は団体を辞めてから、心が平和になりました。

 

そういう情報を入れなくなったからでしょう。

 

 

誰かにバツをつけるのは簡単で、でもそのバツを付けられた方はどうでしょう。

 

裁いたり、責めたり、制限したり、

 

そこから平和は生まれるんでしょうか。

 

バツよりも、マル。

 

マルよりも、そもそもそんな視点で見ない。

 

 

どうすれば皆が気持ちよく、自分自身を愛していられるか。

 

そのことについて話ができる社会になればいいなと思います。

母親の幸せの為に、自分を犠牲にする必要はない。

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「母親を幸せにしなければ」「母を守らなければ」

 

幼心に私はきっと、家族の中で弱者の母を幸せにしようと誓ったのだろう。

 

 

母親の為に自ら進んでお手伝いをし、

 

できるだけ母の手を煩わせないように過ごし、

 

母が喜ぶことはなんでもしたいと思って生きてきた。

 

 

自分の第一希望のつもりであっても、その実、母の希望を優先してきた。

 

母の顔色をいつも伺い、これで自分の言動は合っているのか確かめてきた。

 

 

父から母を守りたい。

 

祖父母や義姉から母を守りたい。

 

その一心で、私は生きてきた。

 

もうすっかり顕在意識に上ることがなくなっても。

 

 

でも当然、我慢はどこかに支障をきたす。

 

自分を犠牲にした「母のため」はやがて大きな不満と、

 

それを抑圧してきた結果の恨みや怒りへと変化していった。

 

 

「母を幸せにしたい」「母を守りたい」という意識と、

 

心の中に澱のように積もっていく怒り。

 

その怒りにも罪悪感を感じ、さらに抑圧し続けてきた。

 

その結果が持病のアトピーなのかもしれない。

 

 

もういいのだ、母のことは。

 

幸せにしたい、守りたいという想いを捨てる必要はない。

 

ただ、その前に「自分を愛でいっぱいに満たしてあげてから。」

 

という大前提を忘れてはいけない。

 

 

私は「母の幸せ」の為に生まれてきた訳じゃない。

 

ましてや子どもの私にそれができなかったからといって、

 

自分を責め続け、罪悪感に苛まれ続ける必要はないのだ。

 

 

私は私の幸せのために、ここに在る。

 

私は自分を愉しむために、生まれてきた。

 

そして私が自分を愛でいっぱいに満たし、心の底から満たされた時、

 

初めて母に向き合えばいい。

 

 

母に愛されなかったから、今の自分は上手くいかないなんて、

 

被害者意識を持つのはやめて、生育歴から自由になっていい。

 

 

LOVE MYSELF COMPLETELY!
(自分自身を徹底的に愛そう)

全ては心次第

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全ては心の問題。

 

どんなに現状がうまくいっていようが、いまいが、

 

内側の心が整っていなければ意味がない。

 

 

心の調子は、身体の調子で判断できる。

 

心を可視化するための存在が身体なのかもしれない。

 

その人がどんな気分なのかは、表情含め、身体を見れば分かるように、

 

自分自身だって身体のコンディションを注意深く見れば、

 

きっと自分の心模様を知ることができるはずだ。

 

 

いくら環境を変えても、それが心のあり方に作用しないなら、

 

一向に身体も、世界も変わらない。

 

 

今、この瞬間に、心は変えられる。

 

それは心が、思考だとも言えるから。

 

思考は脳の解釈だから、少しずつしか変わらないかもしれないけれど、

 

私たちには今この瞬間の選択しかないわけだから、

 

そんなに気の遠くなるような話じゃないのかもね。

 

あなたを縛るものは捨てて行け

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善悪のような二元論を越えた先に、本当の愛があるような気がしています。

 

例えば、私は見事に白黒つけたがる善悪人間なので、

 

「〜すべきではない」「〜しなければならない」で自分の心を縛っています。

 

極端なのは、何もしていない時間を「また怠けてしまった」と後悔したり、

 

眠れない時は「眠らないといけない」という強迫観念で自分を追い込んだり、

 

いつも自分をジャッジして生きています。

 

 

交流分析でも恐ろしくCP(批判的な親)が高く、

 

FC(自由な子ども)がとても低い状態にありました。

 

上記のケースも、別に何もしていない時間を悪くとる必要はないし、

 

ましてそれで自分を責める必要もないわけです。

 

それでも自然とそうしてしまう。

 

それは幼少期に形成された脳の解釈なんだろうと思います。

 

そしてその時期から私は感情を抑圧して生きることを覚えます。

 

それは善悪に沿って、正しくあろう正しくあろうとしてきたから。

 

きっとそうしないと生きていけなったんだろうなと、

 

子どもの頃の家庭環境を今振り返ってみて思います。

 

 

そしてその頃の生き方で何十年経った今も苦しんでいる。

 

親を恨む気持ちも、消えてなくならない。

 

でも今できることは、親の代わりになって、

 

自分を許し続けること。

 

自分の中に自分を裁いてしまう許せない部分がなくなるまで、

 

時間はかかっても今度は愛で支えてあげたい。