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自己愛改善ラボログ

海馬の記憶が、現実を立ち上げているから、ホ・オポノポノのクリーニングが必要

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夢から目が覚めた時、元の現実世界に戻る。

 

そんな感覚から、

 

目が覚めた時、海馬の記憶で脳が現実を立ち上げる。

 

そういう感覚へシフトしてきている。

 

観測者がいなければこの世は存在しないというのは、

 

そういう観点からなのかな。

 

 

例えば、「私は〜である」というセルフイメージ、アイデンティティ

 

海馬の中にある、その記憶によって、

 

現実はその通りに進んで行く。

 

その枠内で未来をイメージし、その枠内で行動するから。

 

RASとスコトーマによってそれ以外は切り取られる。

 

 

じゃあどうやってこの無限ループから抜け出すのか。

 

そこにホ・オポノポノがある。

 

海馬の記憶が何度もリピートするのは、

 

その記憶にしがみついている自分(無意識)がいるから。

 

ではなぜしがみついているのか?

 

感情に蓋をした、など完了していないから。

 

プラスかマイナスに極端に歪曲した解釈が存在するから。

 

 

その感情や解釈を中和して、本来の中庸、

 

つまり意味も何もない出来事や存在に戻す。

 

そうすると自分に制限をかける記憶が減っていく。

 

 

現時点での解釈はこんな感じ。

 

とにかくまだ腑に落ちてはいないので、表現方法が中途半端だけど、

 

アウトプットしていかないことには整理できないので。

 

 

とにかくホ・オポノポノをハワイのお気楽なスピリチュアルメソッドだと

 

思っててごめんなさい。。。

 

海馬の記憶が生み出した現実を見て、

 

うわ〜これは望んでない、これは要らない。

 

そう思うものがあったら、その現実を立ち上げている記憶を探す。

 

そしてその解釈を、気にも留めないレベルまで中和する。

 

 

ありのまま、あるがままを愛するというスタンスも

 

結果としてホ・オポノポノになっていて、

 

とにかく感謝している、愛していると、感謝・愛の記憶が溜まるし、

 

過去の記憶も中和されるしって感じでしょうか。

 

 

そして一番は全ての始まりである、脳の納まっているところ。

 

つまり自分そのものをあるがままに愛し、感謝していることが、

 

全ての流れを好転させていく近道かもしれません。

 

 

 

 

苦しみの原因は、それを問題だと語る自分の思考と、その思考と同一化している意識。

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不足感や無価値感が慢性化すると、どんなものにも「もっと」がつきまとう。

 

もっと人から愛されれば、

 

もっとお金があれば、

 

もっと美しければ、

 

もっと才能があれば、

 

もっと良くなれば、

 

もっと・・・もっと・・・。

 

 

残念ながら「もっと」は終わらない。

 

なぜなら問題を創り出しているのは自分だから。

 

問題があるのではなく、問題だと考えている自分の思考があるだけ。

 

そしてその思考に意識がくっついて、その思考以外を受け付けなくなってるだけ。

 

 

「もっと」を終わらせるには、

 

「もっと」と囁く思考を手放すしかない。

 

もっと人から愛されれば幸せになれる?

 

本当に?

 

それは嘘だ。

 

それよりもその思考を手放した瞬間に、苦しみが終わる。

 

もっとお金があれば幸せになれる?

 

本当に?

 

嘘だ。

 

お金が与えられても、もっとが終わる訳じゃない。

 

それはどんなものであっても同じ。

 

「もっと」という終わりのない思考から自由になって、

 

今、この瞬間に目覚める。

 

今、この瞬間に思考を留めておけるなら、苦しみも消える。

 

そしてずっと私たちは今、この瞬間から動けないんだから、

 

いつでも今、この瞬間に立ち戻れば、苦しみを手放せる。

 

 

「今、ここ」

 

もう何年も前に出会っていた言葉だけど、

 

ここ数日でどんどんそのニュアンスが変化している。

 

今、ここにいることほど、自分の存在を力強く感じるものはない。

 

 

私たちは産まれてからずっと、「今、ここ」しか知らない。

 

どうか全ての苦しみから自由になれますように。

もう、自分を幸せにするものしか見ない。

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間髪入れずの更新だけど、こんなに早く変化が訪れると思わなかったので、、。

 

 

両親に対する恨みに関して手放そうと決めて、

 

母親に、それはかなり慎重に、傷付けないように細心の注意を払って手紙を書いた。

 

でも結局、母を傷付けてしまったようで、

 

私は自責や後悔をするでもなく、どっと疲れて停止してしまった。

 

 

「あぁ、もう人は傷付けたくない」

 

そう思った。

 

 

途端に疲れで疲弊した心が連れてきた答えが、

 

「親を恨んでも百害あって一利なし」だった。

 

 

私は完璧な親を求めて、絶望し、憤怒していたのだ。

 

私は親にとっての子どもとしても、一人の人間としても全然完璧ではないのに、

 

どうして自分にできないことを親に要求し続けてきたんだろう。

 

どこにそんな完璧な親がいるんだろう。

 

完璧じゃなくても、理不尽な接し方をやめて欲しかったという考えもよぎったけど、

 

もういいかなって気持ちになった。

 

 

親を恨むのも、また自分を否定するのも、もうウンザリ。

 

自分を含めて、もう誰かを傷付けるのは、ウンザリ。

 

 

もう、自分を不幸にするようなものは見ない。

 

自分を幸せにしてくれるものだけを見よう。

 

もう一度言う。

 

自分を幸せにしてくれるものだけを見よう。

 

そうすれば世界には幸せしか存在できないんだから。

不要な感情や記憶を背負ったままじゃ、遠くまで行けない。

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何度も繰り返しフラッシュバックする過去の嫌な感情や記憶があったとしたら、

 

それは疑いようもなく、人生の重荷だろう。

 

その嫌な感情や記憶に何度振り回されたら、私たちは手放すのだろう?

 

そのことに自覚的にならない限り、一時的に感傷的になって、また忘れて、

 

そしてまた不意に襲われて、の繰り返しではないだろうか?

 

断捨離と同じで、いくら前向きな考えで生きていこうと決意しても、

 

その前向きな思考やエネルギーが居座るスペースがなければ、

 

簡単に元の住人に追い出されてしまうに違いない。

 

そもそも冷静に考えて、エネルギーロスが半端ない。

 

こんな無駄な人生のパターンは早々に片付けてしまった方がいい。

 

 

手放すには感情を感じ切ったり、紙に書き出したり、

 

探せば色々あるだろうけど、とにかく手放すと決めること。

 

もう今後の人生に持ち越さないと決めること。

 

 

感情の大掃除をしようと決めた。

 

両親に対する怒りや恨みといったネガティブな感情を

 

ちょっと苦しいけれど、振り返って紙に書き出して、

 

いっぱい泣こうと思う。

 

 

背負ってきた重たいものを手放して、

 

気がすむまで涙を流したら、

 

きっと遠くまで行けるはずだから。

 

 

 

 

自分がやりたいこと、得意なことをやるべき理由

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「豊かさとは湧き出る泉のようなもの」

 

この言葉は竹田和平さんという方の言葉なんですが、

 

湧き水って次から次に出てきては、私たちに恵みを与えてくれています。

 

そこには出し惜しみという概念もなければ、制限も存在しません。

 

ただ流れ出しては、豊かさを与え、循環していく。

 

「もったいない」とか「いつかなくなってしまうかもしれない」とか

 

そういう発想や観念は人間が後から作り出したものなんですよね。

 

なんかこれお金に通ずるものがありそうだなと思いながら、

 

私はまだお金に関する不足の観念から抜け出せていないので、

 

話は個人のレベルにスライドします。汗

 

 

今回はこの言葉を見て、

 

「あ、やっぱり自分の好きなこと、得意なこと、やりたいことをやるのが1番だな」

 

と強くそう思いました。

 

湧き水のあり方が自然本来のあり方だとすれば、まず間違いなく、

 

いくらでも与えることができて、それが苦もなく、無理なくできてしまうもの。

 

それが豊かさのスタイルだということになります。

 

自分が湧き水になったつもりで、公私ともにどんなあり方ができるだろう。

 

そう考えた時、制限が外れていくような爽快な感覚になりました。

 

 

そして、人それぞれ得意なこと、好きなことが違う理由も、

 

この地球全体で考えればすごく理にかなっている気がしたんです。

 

 

なのに、人と比べて落ち込んだり(というか今の教育のあり方が問題)

 

世間的評価のために努力したり、しているのが私たちの実情なのかもしれません。

 

 

私はまさにこの手の人間で、いつも他人と比較しては落ち込み、

 

社会からの評価が欲しくて身体が壊れるまで必死に働いたりしていました。

 

よく考えてみれば、これは泉に蓋をして堰き止めてるようなもんだったんですね。

 

しかもその期間が長すぎて、もはや泉の存在を忘れていて、

 

情けない話が「自分が何をしたいのか分からない」状態になっています。泣

 

 

自分が持っている源泉は何だろう?

 

それをどう家族や友人や、そしてもっと広い範囲の社会にまで

 

還元することができるんだろう?

 

人より優れているかどうかではなく、

 

あくまでやっている自分に一番無理のないフローを見つけられるか、

 

それが豊かさ(このフローに乗ればお金も同じかもしれません)へつながる

 

一番の近道なのかもしれません。

 

ヴィパッサナー瞑想のすゝめ

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表題のごとく、私は2年前のお盆の時期に初めて瞑想なるものを習いました。

 

ヴィパッサナー瞑想の合宿は準備の前後日含め12日間のプログラム。

 

内容に関しては百聞は一見に如かずなので、割愛しますが、

 

(というかこれは体験しないと絶対に体感できないと断言できる)

 

いかに私たちが普段何も感じていないか、に気付かせてくれます。

 

知性重視の情報化社会で完全に見失っているものを思い出せます。

 

 

さて、それはさて置き、昨日1日瞑想会に参加して、

 

ヴィパッサナー瞑想の良さを再確認できたので、記録しておきます。

 

 

まず告白すると、私はヴィパッサナー瞑想を完全に忘れていました。

 

1日に10分くらい朝晩に瞑想することはあったのですが、

 

ただ思考を停止し、呼吸に集中するに留まったものでした。

 

これもヴィパッサナー瞑想の前段階(アーナパーナ)にはなると思いますが、

 

1日瞑想会で思い出したのは、身体内の強い感覚に気づくという作業。

 

多分、これが他の瞑想とは違う点だと思うんですが、

 

この体内の感覚に、渇望も嫌悪もせず、ただ観察し続ける。

 

すると感覚は無常なので、次第に場所や強さが変化していきます。

 

これ一見、何のこと?って感じがするんですが、

 

例えば、痒みと痛みが同時に発生した場合、

 

優先度が高いもの(命の順番とも言う)から認識されます。

 

(蚊に刺された箇所に爪でバツをつけると痛みで痒みをごまかせたりするアレ)

 

痛みが引くと、次は痒みがまた思い出されるように、

 

感覚は常に移ろうものです。

 

これをヴィパッサナー瞑想では呼吸で思考を停止した後に観続けていきます。

 

 

人間の体は全体性で成り立っているので、

 

例えば腰痛の原因が目の酷使だったりということは往々にしてあります。

 

目の酷使→首の硬直→肩こり→腰痛みたいな(適当ですが)

 

ルートがあってようやく腰の痛みがあるとしたら、

 

ヴィパッサナーはこれを順番に遡っていくようなイメージ。

 

 

もちろん肉体的なものだけじゃなく、思考や感情による精神的なものも

 

人それぞれ癖があり、その結果不調が引き起こされたりすると思うので、

 

ヴィパッサナー瞑想曰く、朝晩心の掃除をするように

 

瞑想をしなさいと説いています。

 

そうすることで初めて恩恵にあずかることができると。

 

これうまく説明できないのです、かなり腑に落ちているので、

 

またしっかりと瞑想を人生に取り入れていきたいと思います。

 

 

まとまった休みが取れたらまた合宿行きたいなと思った昨日でした。 

引き寄せがうまくいかない理由はもしかして、、、

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引き寄せの法則に初めて出会ったのは確か大学受験を控えた頃だった気がします。

 

ザ・シークレットの本が書店で平積みされているのを見て、

 

なんとなく手にしたのがきっかけでした。

 

でも視力がよくなったとか(当時一番抵抗があった記述がこれだった気がする)

 

当時の自分の思考の枠組みではどうしても理解できなかった。

 

というか疑いの目が強すぎたので、あっさり拒否します。

 

 

それから色々な自己啓発やスピリチュアルな本を読んでいって、

 

また10年後に再会した時には当時ほど抵抗は見られなくなってました。

 

ただし、今の自分が使いこなせている訳ではないので、

 

まだまだ抵抗が残っているんだろうな、と思うものの、

 

これまでの人生を振り返ってみると、

 

あれはあまりにもうまく行き過ぎていたよなと信じるしかないような

 

引き寄せかもしれないと思える出来事も確かにあるのです。

 

 

つまり少しずつではあるものの、疑い→信じるにシフトしてる途中と言った感じ。

 

そうここで本タイトルなのですが、

 

まず前提条件として引き寄せをうまく活かすためには、

 

「信じている」ことが必要な訳です。

 

ここが私たちにとって最難関な訳で。。。

 

私たちは事実(現実)を見て→信じるというプログラムが強く働きすぎるので、

 

いつまで経っても心の底から信じることができません。

 

裏を返せば「信じたいけど、まだ疑いも捨てられていない」という状態で、

 

一生懸命イメージしたり、アファメーションしたりしている。

 

そしたら、まぁ当然中途半端な形で引き寄せますよね。

 

そして疑いが捨てられないようなものなので、当然見て→信じるに達しない。

 

こうなるとやっぱり「うまくいかないじゃん」て疑いを強化しますよね。

 

「うまくいってない(正確にはうまくいってるかもしれない)」の結果を見て、

 

信じるかどうかのスタンスを決める訳ですから。。。

 

 

ここすごく自分でも重要なポイントだなって感じてて、

 

よく「あり方が大事だよ」って言われますけど、

 

あまりに見えるものだけを信じる世界に洗脳されすぎちゃってるなと。

 

この信念をどうにか緩めることからまず始めた方が良さそうですね。

 

赤外線とか紫外線って人間の目には見えないけど、あるよな〜とか、

 

動物には聞こえるのに人間には聞こえない音も、あるよな〜とか、

 

そういう目に見えないけど確かにあるってことは証明されてるものを

 

もっと意識して見聞きして、抵抗感を下げていくとかね。

 

 

長くなったので、そろそろ締めようと思うんですが、

 

最近もう一つ上手くいかない原因があるんじゃないかと感じてて、

 

それは「変化に対する抵抗感」です。

 

 

多分、どれだけ頭で引き寄せのことを信じよう信じようとしても、

 

無意識のレベルで「変わりたくない!!!」と強烈に反発してたら、

 

それがもうすでに引き寄せられてるって可能性です。

 

 

顕在意識(せっせとイメージしたり、アファメーションする箇所)の努力は

 

潜在意識との比で考えてみても、絶対に勝てる訳ないんですよ。

 

1(顕在):9(潜在)くらいの割合ですっけ?

 

無理でしょ。。。いや絶対に無理なんですって。

 

ホメオスタシスだって働いてるんですから。

 

よっぽどの火事場の馬鹿力を要するような緊急事態じゃない限り、

 

顕在意識の部分だけで引き寄せを起こそうなんて、無理。

 

だから潜在意識に向けて「変化を受け入れます」とか「変化を楽しみます」とか

 

まずそっからアプローチしてっていうステップが必要なんじゃないかな、と。

 

 

なんかそういう潜在意識のブロックを外す工程の説明抜きに、

 

一気に引き寄せの手順に入ってるから引き寄せ難民が続出するんじゃなかろうか。

 

かくいう私がその一人なんですが。。。

 

まずはホメオスタシスを欺けるように少しずつ変化を促していこうと思います。