WE BECOME WHAT WE THINK ABOUT

自己愛改善ラボログ

人生で出会う嫌な人、嫌な出来事には、幸福へのヒントが眠ってる。

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これまで何度となく、私に不愉快な思いをさせる人や出来事に出会ってきた。


未だに思い出しては嫌な感情に揺さぶられてしまうものもある。

 

けれど改めて感じるのは、嫌だと感じるものにこそ価値があるということ。

 

よく引き寄せでワクワクするものを探しなさいと言うけれど、

 

それがさっぱり思い当たらず、どこに出かけて、誰に会えば見つかるのか、

 

いつもワクワク迷子になって、途方に暮れてしまう。

 

それもそうだろう。

 

日本人、というか人間の性質なのかもしれないけれど、

 

ダメなことに関してとにかく世間が放っておかない。

 

褒めるよりも、裁くことの方が得意な人が多いんじゃないだろか。

 

そうなると良い面を見つける力よりも、

 

悪い面を見つけて是正していく力が鍛えられていく。

 

ワクワクすることを簡単に探せなくて当然なのである。

 

そこで嫌なことが役立ってくる。

 

嫌だと感じるのは、自分の大切にしている価値観に沿わないということ。

 

例えば私は相手に対して偉そうな人を見ると嫌な気分になる。

 

それが年上であっても、権力者であってもだ。

 

つまり私の望むもの(ワクワクと言うにはちょっと違うかもだけど)は、

 

もちろん社会的な上下関係で尊重し合うのは良いとしても、

 

フラットな関係性をいつも欲しているんだと思う。

 

その価値観も過去を元に形成していて、

 

おそらく母に対する父や父方の祖父の横柄な態度に、

 

子どもながら傷付き、怒り、もうこんな思いはしたくないと感じたんだろう。

 

そうやって人生を丸ごと振り返ると、

 

社会に出てから私が途端にしんどくなってしまったのは、

 

偉そうな人がとにかく多すぎるからだと思う。

 

私が不適合者なのだろうけど、やっぱりもっと尊重し合える人間関係がいい。

 

そうやって一つ一つ自分の嫌なことを洗い出して、

 

反転させてみると、みるみるうちに欲しいものが見えてくる。

 

そしてそれが全て叶った世界を想像すると、

 

はい、間違いなくワクワクするんです。

 

 

つまりワクワクが見つかんない時は、無理してワクワクを探しに行かずに、

 

感情が発しているシグナルを全点検してみれば良いんだと思います。

 

もちろん自分にとって好ましい人、好ましい出来事はそのまま大切にするで

 

いいと思うんですが、嫌なものにもすごく恵みがあるんだなってことです。

 

だって何も感じないという人や出来事の方が圧倒的に多いはずなので。

 

 

好ましいにしろ、好ましくないにしろ、

 

感情のセンサーが反応しているものは全部メッセージなんだなって。

 

そしたら、家族ってやっぱりすごい存在だなと思います。

 

嫌なものたくさん見せてくれる。

 

それは私が幸せになるための見本帳みたいなもんです。

 

嫌いな人にも、少しずつ感謝できる目線にシフトしてます。

 

そのことにも感謝な毎日です。 

生まれてくることも、死ぬことも、自分自身で選べないのに、なぜその間は選べると思うのか?

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自死は自分で選べるのでは?

 

とかいう天の邪鬼的な意見は無視するとして、

 

生まれてくることを自分で決めたよって人はいないと思う。

 

スピリチュアルでは意識が決めてきたっていうけど、

 

まぁそれもね、感覚的に否定はしないけど、まぁここでは一般的な

 

顕在意識(思考)の話で進めます。

 

そして死ぬ時も自分の意志で「はい、ここまで」って終われない。

 

つまり、生死は自分でコントロールできない。

 

息を止めればとかそういう横槍が出てきたけど、

 

要は行動をせずに思考だけでできますか?って話。

 

とてもじゃないけど、脳で生死はコントロールできない。

 

じゃあなぜその間の人生は自分で選べると思うんだろう?

 

自由意志っていうけど、最近それすら疑っています。

 

自分で選べなきゃ、シナリオ生きてるみたいで意味ないじゃん。

 

って思いますか?

 

実際、そうなのかもしれないと思っています。

 

で、シナリオ生きてるみたいで意味ないじゃんと思いながら、

 

人生送るのはさすがに味気ないなって意識が思って、記憶を消した。

 

そう考えたら、どうです?

 

だって物心つくまでの間、どうやって生きてたんです?

 

自我が芽生えるまで、思考してなかったんでしょうか?

 

いや、思考はしてるんですよね?

 

つまり、後から芽生えた思考(自我)が我が物顔で握っている(つもりの)

 

その人生のハンドルは、その前は誰が握ってたんでしょう?

 

そう、思考も感情もあなたが選んでいる訳ではないように、

 

この人生のあらゆる判断も実はあなたの判断とは別に動いているのかも。

 

そして、その判断を元にあなたがそう決めたと感じているだけなのかも。

 

だったら、ハンドルをお返しして、やるべきことだけやって、

 

あとは助手席で変わりゆく景色を眺めている方がいいのかもしれません。

 

 

やるべきことってなんだよって思うかもしれませんが、

 

私は焦点合わせ(何を見るか)と解釈(どう思うか)だけかなと思います。

 

行き先が選べないと言っても、360度首は動くわけで、

 

何をその視界に入れるかは選べるんじゃないでしょうか。

 

そしてその景色をどう感じるかも選べると思います。

 

 

行動が必要だってよく言うけれど、

 

そもそも焦点合わせと解釈によって、その行動は範囲を限定される訳なので、

 

この2つに徹していれば、必然的にその範囲に見合ったものが、

 

視界に入ってきて、もし心が動けば、体も勝手に動くでしょう。

 

赤ちゃんだって心地よい方向に勝手に体を向けるそうです。

 

 

この焦点合わせと解釈を無視して、ゴリゴリ左脳的に行動したら、

 

多分何度も振り出しに戻るように、宇宙からコントロールされるんじゃないかな。

 

 

だって宇宙はずっと自然の法則から外れることなく回ってるわけですし、

 

気が遠くなるような年数、ずっとそれは守られてきたわけなので。

 

 

助手席で何しますか?

とりあえず楽しみますよね。

 

ハンドル握って、神経使う必要なくなったのに、まさか頑張りませんよね?

 

私は今、とにかく人生を信頼しまくる方向に思考をアホウにしています。

 

大丈夫、笑っていれば、多分なんとかなるよ、多分。(保証はしません)

 

 

 

 

ストレスは、あるがままの現実に異を唱えた時に、生まれる。

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今起こっている全ての現実は、良いも悪いもなく、ただ存在している。

 

そこに私たちの思いや願いなどの個人的な解釈が付けられて、

 

時に喜び、時に怒り、時に哀しみ、時に楽しんだりしているのだ。

 

 

実際は、「無」だ。

 

私はずっと自分のことを常識的な人間だと勘違いして生きてきた。

 

ある見方をすれば常識的かもしれないけれど、

 

それはある意味で刷り込まれているエゴを盲目的に信じていただけだった。

 

 

「〜であるべき」

 

「〜でなければならない」

 

「〜した方が良い」

 

「もっと〜であれば」

 

これは全部、今起こっている完全な現実に対して、ノーと言っている。

 

あるがままの現実に対して、起こりえない現実を要求しているのだ。

 

そしてそれは一生叶うことがないのにも関わらずだ。

 

だって今目にしているのに、そうじゃないものが正しいと言っている訳で、

 

見ているくせに、見て見ぬ振りをして、ないものを求めている。

 

 

それがストレス。

 

過大な自分への期待、他者への要求、現実への妄想。

 

自分の考えを手放すのだ。

 

自分が考えていること、ラベリングしたこと、全て剥がして、

 

ただあるがままに、何も変えずに、現実を眺めてみる。

 

100%これでいい。

 

なぜならそれがあるから。

 

 

私は今日、自分の予測していた通りにならなかったことでストレスを感じ、

 

過食衝動に負けてしまった。

 

でも冷静に考えれば、起こっていることが現実で、

 

私の予想が私のエゴによる妄想だったことに気付く。

 

ずっとこれを繰り返し続けてきたんだ。

 

あるがままの現実を受け入れず、自分の理想のストーリーに沿わないと、

 

焦り、怒り、嘆き、悲しみ、衝動的になり、感傷的になった。

 

 

確かに受け入れがたいことも現実としてあるけれど、

 

それが現実なのだし、それしかないのである。

 

それ以外はあなたが勝手に作ったストーリー。

 

ストレスフルな人ほどエゴに飲まれている可能性がある。

 

自分のハンドルを握っているのは意識かエゴか。

 

感情はいつも教えてくれる。

 

引き寄せの法則、うまくいくコツは、『「できる」と思うこと』の一点突破でいけるのでは?

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今、人生で何度目かの危機です。

 

仕事もなかなか決まらず、貯金も底をつきました。。。

 

 

そこでどうしてこの現実が起こっているんだろう?

 

発生源はなんだろう?

 

そんなことを風呂に入りながら、自分と対話してみました。

 

 

そしたらやっぱり「無価値感」に行き着いたんですよね。

 

もっとフィットした言葉で言い換えるなら、「無能感」。

 

 

「私にはできっこない」

 

「私には無理だ」

 

 

かなり根強い「できない」というマイストーリーがありました。

 

顕在意識でこんな感じなんだから、潜在意識はどうなってるのやら。。。

 

 

引き寄せが上手くいかない理由として

 

①執着している

②被害者になっている

③自分を愛せていない

 

というものがあると読んだことがあるのですが、

 

いや、その前に「できない」をクリーニングして手放す必要がある。

 

そう強く思いました。

 

だって①〜③を改善「できる」って思えなきゃ、どうにもこうにも

 

ならんのではないかと思うからです。

 

 

実際に、自分の周りを見渡してみたとき、

 

「できない」はそこかしこにはびこっていました。

 

 

過食をやめることは今の自分にはできない。

 

母親と深く理解し合うことはできない。

 

自分には自活する力がない。

 

お金を上手く扱うことができない。

 

私にはどんな仕事も上手くできそうにない。

 

 

あー、この無能感。

 

ヘンリー・フォードの名言に救いを求めます。

 

本人ができると思えばできる。できないと思えばできない。

 

どちらにしてもその人が思ったことは正しい。」

 

想像できることなら、誰にでもどんなことでもできる。」

 

何が可能で、何が不可能か、はっきり言い切れる人はいない。」

 

この方、間違いなく「できる」のマスターだと思います。

 

 

今日から潜在意識に「できる」と伝えて、

 

自分に勇気与えるぞ〜

 

海馬の記憶が、現実を立ち上げているから、ホ・オポノポノのクリーニングが必要

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夢から目が覚めた時、元の現実世界に戻る。

 

そんな感覚から、

 

目が覚めた時、海馬の記憶で脳が現実を立ち上げる。

 

そういう感覚へシフトしてきている。

 

観測者がいなければこの世は存在しないというのは、

 

そういう観点からなのかな。

 

 

例えば、「私は〜である」というセルフイメージ、アイデンティティ

 

海馬の中にある、その記憶によって、

 

現実はその通りに進んで行く。

 

その枠内で未来をイメージし、その枠内で行動するから。

 

RASとスコトーマによってそれ以外は切り取られる。

 

 

じゃあどうやってこの無限ループから抜け出すのか。

 

そこにホ・オポノポノがある。

 

海馬の記憶が何度もリピートするのは、

 

その記憶にしがみついている自分(無意識)がいるから。

 

ではなぜしがみついているのか?

 

感情に蓋をした、など完了していないから。

 

プラスかマイナスに極端に歪曲した解釈が存在するから。

 

 

その感情や解釈を中和して、本来の中庸、

 

つまり意味も何もない出来事や存在に戻す。

 

そうすると自分に制限をかける記憶が減っていく。

 

 

現時点での解釈はこんな感じ。

 

とにかくまだ腑に落ちてはいないので、表現方法が中途半端だけど、

 

アウトプットしていかないことには整理できないので。

 

 

とにかくホ・オポノポノをハワイのお気楽なスピリチュアルメソッドだと

 

思っててごめんなさい。。。

 

海馬の記憶が生み出した現実を見て、

 

うわ〜これは望んでない、これは要らない。

 

そう思うものがあったら、その現実を立ち上げている記憶を探す。

 

そしてその解釈を、気にも留めないレベルまで中和する。

 

 

ありのまま、あるがままを愛するというスタンスも

 

結果としてホ・オポノポノになっていて、

 

とにかく感謝している、愛していると、感謝・愛の記憶が溜まるし、

 

過去の記憶も中和されるしって感じでしょうか。

 

 

そして一番は全ての始まりである、脳の納まっているところ。

 

つまり自分そのものをあるがままに愛し、感謝していることが、

 

全ての流れを好転させていく近道かもしれません。

 

 

 

 

苦しみの原因は、それを問題だと語る自分の思考と、その思考と同一化している意識。

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不足感や無価値感が慢性化すると、どんなものにも「もっと」がつきまとう。

 

もっと人から愛されれば、

 

もっとお金があれば、

 

もっと美しければ、

 

もっと才能があれば、

 

もっと良くなれば、

 

もっと・・・もっと・・・。

 

 

残念ながら「もっと」は終わらない。

 

なぜなら問題を創り出しているのは自分だから。

 

問題があるのではなく、問題だと考えている自分の思考があるだけ。

 

そしてその思考に意識がくっついて、その思考以外を受け付けなくなってるだけ。

 

 

「もっと」を終わらせるには、

 

「もっと」と囁く思考を手放すしかない。

 

もっと人から愛されれば幸せになれる?

 

本当に?

 

それは嘘だ。

 

それよりもその思考を手放した瞬間に、苦しみが終わる。

 

もっとお金があれば幸せになれる?

 

本当に?

 

嘘だ。

 

お金が与えられても、もっとが終わる訳じゃない。

 

それはどんなものであっても同じ。

 

「もっと」という終わりのない思考から自由になって、

 

今、この瞬間に目覚める。

 

今、この瞬間に思考を留めておけるなら、苦しみも消える。

 

そしてずっと私たちは今、この瞬間から動けないんだから、

 

いつでも今、この瞬間に立ち戻れば、苦しみを手放せる。

 

 

「今、ここ」

 

もう何年も前に出会っていた言葉だけど、

 

ここ数日でどんどんそのニュアンスが変化している。

 

今、ここにいることほど、自分の存在を力強く感じるものはない。

 

 

私たちは産まれてからずっと、「今、ここ」しか知らない。

 

どうか全ての苦しみから自由になれますように。

もう、自分を幸せにするものしか見ない。

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間髪入れずの更新だけど、こんなに早く変化が訪れると思わなかったので、、。

 

 

両親に対する恨みに関して手放そうと決めて、

 

母親に、それはかなり慎重に、傷付けないように細心の注意を払って手紙を書いた。

 

でも結局、母を傷付けてしまったようで、

 

私は自責や後悔をするでもなく、どっと疲れて停止してしまった。

 

 

「あぁ、もう人は傷付けたくない」

 

そう思った。

 

 

途端に疲れで疲弊した心が連れてきた答えが、

 

「親を恨んでも百害あって一利なし」だった。

 

 

私は完璧な親を求めて、絶望し、憤怒していたのだ。

 

私は親にとっての子どもとしても、一人の人間としても全然完璧ではないのに、

 

どうして自分にできないことを親に要求し続けてきたんだろう。

 

どこにそんな完璧な親がいるんだろう。

 

完璧じゃなくても、理不尽な接し方をやめて欲しかったという考えもよぎったけど、

 

もういいかなって気持ちになった。

 

 

親を恨むのも、また自分を否定するのも、もうウンザリ。

 

自分を含めて、もう誰かを傷付けるのは、ウンザリ。

 

 

もう、自分を不幸にするようなものは見ない。

 

自分を幸せにしてくれるものだけを見よう。

 

もう一度言う。

 

自分を幸せにしてくれるものだけを見よう。

 

そうすれば世界には幸せしか存在できないんだから。